ブログ案内人のアンデルです。
突然ですが、皆様は
受動意識仮説という説をご存じでしょうか?
「心は幻想である」という衝撃的な説なので、
批判を通り越して、反感を持ってしまう方が多く、
現在のところ、普及するには至っていない説です。
私は、以前からこの説に非常に興味を持っておりましたので、
何故、地動説と並ぶような大発見である受動意識仮説が、
世の中に受け入れられなかったのか?
を考察してみたいと思います。
先日、当ブログに登場して頂いたM氏にお話を伺う機会がありました。
M氏にお会いするとあって、
先日の記事に関するお話が聞けると期待していたのですが、
M氏は、受動意識仮説について話題にされました。
受動意識仮説については、
上動画を見るとおおよその内容が理解できます。
大変オススメできる動画ですので、是非ともご覧ください。
私は前野教授の本を数冊読み、
受動意識仮説の「心は幻想である」という
衝撃的な内容に触れ、
仮説とはいうものの、
すでに検証されている実験結果を鑑み、
「これは揺ぎ無い真実だ」と感じました。
「受動意識仮説は世界を変える」と思ったのです。
ところが、そんな感想を持つ私に対し、
M氏は「受動意識仮説は、言わば地動説です。
人々は受動意識仮説を受け入れることはできません。
よかったら、この動画のコメント欄を見てください」
と仰いました。
ですので、
上記動画のコメント欄をチェックし、
主だったところを読んでみると、
それらのコメントからは
「受動意識仮説を否定したい」という、
強い衝動を感じました。
動画の中の講義には沢山の引用があります。
誰かに意図を伝えたいときに、
引用や例え話には高い効果があります。
しかし、相手は人間ですので、
引用や例え話の内容や質よりも、
受け手の感情の状態が理解度を左右する場合もあります。
否定的な感情を持たせてしまった相手には
逆効果となり、
誤解を生むこともしばしばです。
一般的に、先生方は普段の講義において、
できる限り学生の理解を引き出せる
引用や例え話を用いているはずです。
それは、前野教授も同じだと思います。
ところが・・・
極めてセンシティブで、
正しい受け止め方の難しいテーマである
受動意識仮説についての講義を
ユーチューブ上で公開してしまったのですから、
事態は異なります。
目の前にいる受講生とならば、
場の空気を感じながら、
やり取りでリカバリできる部分もありますが、
ユーチューブの視聴者とは意思疎通が難しいですし、
圧倒的な視聴者数ですから、
「心を否定された」と感じた人々の拒絶反応は、
いわゆる炎上状態に近かったかもしれません。
この講義は、撮影されてはいるものの、
一般の方の理解を促す構成ではなく、
目の前の学生に向けた講義だと思います。
講義環境の齟齬がなければ、
もっと違った反応だったかもしれません。
兎にも角にも、
様々な評価を受けることになった受動意識仮説ですが、
私にとっては、人生最大のテーマの一つです。
「受動意識仮説はもっと高く評価されるべきだ」
と考える私に、
M氏は「人々についてもっと知るべきです」と仰いました。
さらに「受動意識仮説のような発想をする人が、
世間から評価されたいと思うでしょうか?」
と続けました。
私は前野教授のような素晴らしい人間ではなく、
ただの俗物ですので、
世間からの評価は大切だと思っています。
また、人間を信じたいという気持ちもあります。
ですので、
「天動説の時代と現代では、
未知の説への向き合い方が変化したはずです」
と、反論したかったのですが、
コメント欄のこともあり、その場では黙っていました。
そして、その後気になっていろいろ探ってみたのですが、
どうやら、間違っているのは私のようです。
受動意識仮説に対しての意見を調べてみると、
ユーチューブ動画のコメント欄だけではなく、
あらゆる媒体において
沢山の批判的感想が見つかります。
もちろん、検証のための批判は大切ですが、
およそ的外れな批判に沢山の支持が集まるのです。
私は、それらを眺めながら、
ガリレオの相対性原理を思い起こしました。
物理現象への主張でさえ命の危険を伴った訳ですから、
人間の根幹を問う「受動意識仮説」という主張は、
説の検証とは別次元にある、
拒絶反応という壁で遮られ、
普及は困難だと感じました。
心を否定するようなセンシティブなトピックの場合、
もっと注意深い表現が必要だったのかもしれませんが、
それとは別の、根本的、根源的限界と、
それらの存在すら予測できない自分自身に落胆しました。
受動意識仮説は、
意識の本当の姿を科学の力で解き明かしたのですから、
その功績は非常に大きい筈です。
しかし・・・
本来であれば
この分野の第一人者である前野教授は、
現在、幸せの研究をしているそうです。
受動意識仮説と地動説には、
大胆な発想であるという共通点と、
既成概念に拒まれるという共通点があります。
しかし、
より強く拒まれるのは受動意識仮説かもしれません。
社会とは何か?
人とは何か?
私とは何か?
ふと、そんなことを考えたのですが、
これら一連の思考の流れは
私の中の小人達の反応で
『社史編纂室長=私の心』は
それを記録しているだけです。
続編を書いてみました。
「何故、受動意識仮説は受け入れられなかったのか?」についての
もう一つの原因についても触れておりますので、
よかったらご覧になってください。
アンデル
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